アンディ・ウォーホル
僕の心はテープレコーダーのようなものだ。
いつでもボタンひとつで消去できる。
その昔、アンディ・ウォーホルは言った。
不安定だった思春期の僕は
その言葉が、
「苦しみから逃れるひとつの手段」だと考えていた。
つまり、
「ボタンひとつで自らの心をコントロールできる」と
自己暗示することで自らの心の安定化を図るということ。
けれども、今思えば、
ウォーホルの真意は
どうやらそこにはない、ということがわかってきた。
ウォーホルの大衆のイメージの引用・流用・転用という手法から考えて、
その真意は
作品のアイデンティティがアーティストであるウォーホルにではなく、
「大衆」にあるという点にあるのではないかと考えるようになった。
「主権在民」とか「没個性」という言葉があてはまるだろうか。
「わたし」を極限まで薄めるとことで
「大衆」が見えてくる。
あるいは
「わたし」は生まれてこのかた常に大衆の中にいて、
常々「大衆」と共通のイメージを共有してきたという事実。
「わたし」たちは
「マリリン・モンロー」に熱狂し、
「コカ・コーラ」を飲んできたという事実。
その事実は
「自己を開放する」という見地から考えて、
僕を劇的に変化させることとなった。
「わたし」と「社会」との関係性に思い悩む。
これはわれわれ人間の宿命だ。
われわれ人間はこの世に生まれてしまった以上、
「わたし」を意識せざるを得ない。
「わたしはわたしである」というどうしようもない欲求にかられる。
それは生命欲とも呼ばれる。
けれども、われわれの記憶や思考、イメージを形成しているのは
決してくわれわれ自身ではない。
今まで目にした、耳にしたすべてのもの、人との
相互関係によって、それはもたらされている。
僕の心はテープレコーダーのようなものだ。
いつでもボタンひとつで消去できる。
僕はひとつの人生のヒントに辿り着く。
それは「わたし」と「あなた」の境界線をなくし、
目にした、耳にしたすべてのもの、人に寛容になるということだ。
それは目にした、耳にしたすべてのもの、人が
「わたし」を形成し、
また、新たなイメージを生み出すということだ。
それはウォーホルの「オープンハウス」で説明がつく。
「ファクトリー」はいわばウォーホル自身だ。
その「ファクトリー」を彼は一日中開放した。
四六時中不特定多数の人物が出たり入ったりする。
自分の心の中に
不特定多数の人が土足で入ってくるようなものだ。
だが、そこに人生の大きなヒントが隠されている。
そこが、「わたし」自身の心の内側であろうとなかろうと、
そこで出会ったすべての人々と「わたし」の間で起こった
すべての出来事が「わたし」自身を形成していく。
記憶が刻まれ、知識となり、経験となるのだ。
僕はそこに人生の望みをかける。

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